苫小牧から発信する支援の輪~NPO法人テレサの丘Vol.1~

重症心身障がい児について、法律上の定義を紐解くと、「身体的・精神的障害が重複し、かつ、それぞれの障害が重度である児童および満十八歳以上の者」となっています。
日常生活の介助が不可欠で、医療的ケアが必要になる方もたくさんいます。
つまり、公的サービスをはじめとした様々な支援が必要不可欠であり、全国でも徐々に理解と支援が広がりつつありますが、まだまだ足りていないといいます。
特に、重症児デイとなると地域差は歴然。地方都市では絶対的に受け入れ数が足りていない状況です。
そんな中、苫小牧市には心の通った重症児デイサービスが受けられる素敵な施設があります。
その名も「重症心身障がい児サポートはうす ヒーロー」です!

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きっかけは「理にかなわない」ことへの違和感だった

苫小牧市は人口17万人の中都市です。製紙業が盛んで、ホッキ貝の漁獲量は日本一を誇っています。
決して小さなまちではありませんが、福祉サービスに目を向けると、残念なことに重症心身障がい児の施設は数えるほどしかありません。
また、長年養護学校がなかったこの地では、重症心身障がい児の方々は、家庭の中で教育を受けることを余儀なくされていました(※令和3年4月に北海道苫小牧支援学校が開学しています)。
NPO法人テレサの丘の代表 神代 律子(くましろ りつこ)さんはこの事実に「理にかなわなさ」を感じたといいます。
「同じ子どもなのに通うところがない、というのは親御さんにとっても、私にとっても『理にかなわない』なと思いました。 この何年かで、学校も重症児や肢体不自由児を受け入れるようになってはきましたが、親御さんは付き添いをしないと通学できないということもよくあります。 更に、症状によっては痰の吸引や人工呼吸器の管理などが不可欠で、親御さんは24時間眠る暇もなく管理していらっしゃるのに、そこへの理解が不足していることへの疑問も感じていました。」

なんで、当事者と保護者(特にお母さん)だけが家に引きこもって孤独に耐えて大変な思いをしなければいけないの?
なんで、幼稚園や小学校に通えないの?
なんで、障がいがあることを理由に我慢しなければいけないの?
なんで、行政からの社会資源が不足したままなの?
たくさんの「なんで?」が渦巻き
じゃあ、通うところを作ってしまえばいい、と立ち上がった神代さん。

その視野の広さはどこから?と尋ねると「福祉以外の業種での経験が大きいと思います。」というお答えが返ってきました。
「行政の手が回らない、他の誰もやれる人がいない、じゃあ私がやろう、となったときに、誰しも同時にリスクを考えると思います。 例えば医療現場にずっと携わっている方であれば、医療ケアの危険性を経験しているからこその『できなさ』があると思いますが、その点、私はほかの経験があり、福祉サービスの提供者側からだけの目線ではなく、『お客様第一主義』を徹底して学んできているからこそ動けたのだと思っています。」

多様な視点からものごとを見ると不思議と「理にかなわない」ことと、それをどう解決したらよいか、が見えてくると、神代さんはおっしゃいます。

更に神代さんの背中を押したのが、とある重症心身障がい児の親御さんとの出会いでした。
この方は当事者の親として一人で子どもを育て上げ、30歳になってから事業所を立ち上げたお母様だそう。
福祉業界で働いた経験はなく、右も左もわからない中で「どうにかしなくてはいけない」という思いで立ち上げたというその彼女に出会ったときに、神代さんはハッとしたそうです。
「彼女が一生懸命になって、もがいて苦しんでいるのをみて、私は福祉の経験もあってそれも生かせるはずなのに、やらない理由がない。やっぱり苫小牧に作るべきだ!と勇気をもらったのが直接のきっかけかもしれませんね。」

「それに、会社からお金を出してもらうことの苦しさを経験してきたという点も大きいです。会社で働く身としては失敗できないし責任が大きい。 翻って、自分でやれるなら、失敗しようがどうしようが自分の責任でできる!売り上げのパーセンテージに関係なく、目の前にいる方の満足度だけを考えられる!と思いました。」

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こうして、前職から独立してNPO法人「テレサの丘」を立ち上げるに至ったのですが、ひとくちに「事業所の立ち上げ」と言っても伴うリスクは一つではありませんでした。
資金面然り。札幌市には札幌市重症心身障がい児者等受入促進事業として、補助金などの制度がありますが、苫小牧市にはありません。つまり、全部自費で準備をする必要があります。
人員配置についてもリスクが伴います。
まず、設立当初の事業所には募集をかけても人材が集まりにくい傾向にあります。
仕事として結果を出し、個々の職場が働きやすいという評価があれば集まりやすくはなるかもしれませんが、スタートアップではなかなか難しい上、事業の特性上、国家資格が求められるということもあって、人の確保というのが大きな課題となります。
確保できたとしても、その育成、継続、医療ケアの過酷さ、といった問題は続き、この点は全国的な課題となっているそうです。

そこで、「重症心身障がい児サポートはうす ヒーロー」では少しでも不安要素を減らすため、苫小牧市立病院から10分という好立地に事業所を構えました。
何かあったときに迅速に医師の判断を仰げることで、利用者ご本人様だけでなく、ご家族、サービスを提供するスタッフにも安心安全を担保し、負担軽減につなげることができています。
とはいえ、不安要素はゼロになることはない、とも神代さん。
リスクマネジメントはいくらやっても足りるということはなく、不安感を少しでも少なくするために、研修をしたり、他事業所の看護師からの意見を聞いたり、医師からの指示書に関するレジュメを細かく作成したり、といった努力をされています。

コロナ禍でも守りぬいたのは「人」

立ち上げて間もなく、苫小牧市も新型コロナウィルスの猛威に襲われました。
第一波のピークの当時は、4人いた契約児童も当然のことながらほぼ通ってこられず、請求はいつもゼロでした。
それでも契約してくださる児童が一人でもいれば大事にしたい、という思いで事業所を継続。
苦しい状況はどこの事業所も一緒で、閉鎖せざるを得なかったところもたくさんあったそうです。
「経営者もみんな頭を下げ、ボーナスも払えないところも多かったと聞きましたが、うちは頭を下げる前に払っちゃってましたね。だって、給与をもらう側は頭を下げられたってね、って思いますよね。」
とあっけらかんと話してくださる神代さんですが、一番の課題はお金のことよりも、通ってくる子どもがいない中でスタッフのモチベーションを下げないことだった、と当時を振り返ります。

人がいなくなる恐ろしさの方が、お金がない恐ろしさよりも大きかった。
コロナという最悪な経験をして、世界がすっかりもとに戻ったとしても、また同じ人材を集められるかと言ったらきっと集められない。このスタッフを大事にしたい。
そう思った神代さんは、週に一回集まって勉強会をしたり、動画を撮って保護者に配信したり、など様々な工夫を凝らしたそうです。
「折角集まった素晴らしいスタッフをてんでバラバラにしちゃいけない、その一点しか考えてなかったですね。だからなんとかしなきゃいけないといつも考えていましたが、今振り返るとどうやって回していたかわからないんですよ(笑)。うちの家族は内容を知ったらドン引きしたと思いますけど。」

「ヒーロー」誕生秘話

「重症心身障がい児サポートはうす ヒーロー」のFaceBookなどを拝見すると、可愛らしい二人のキャラクター「ひったん」と「ろったん」が登場します。

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実はこちら、一緒に事業所を立ち上げたスタッフの石谷さんが生み出したキャラクターです。
神代さんご自身の経験から、自分で名前を付けた事業所は大事に思えるはず、と、自由に名称を考えてもらったところ、「ヒーロー」という名前と共にこのキャラクターが誕生したとのこと。
今や事業所の大事なアイコンになっています。

また、「ヒーロー」という名称も、神代さんが由来しているそうで、前職の放課後児童デイサービスに在職していた際、自閉症の子が作ってくれた本「園長先生はヒーロー」から名付けられたという、素敵なエピソードを教えてくださいました。
「前職を引退すると決めたときに、その子が二作目を作ってくれたんです。その内容が 『悪も進化して闘うのが困難になってきたけれども、それでもヒーローも進化する』というものだったのですが、石谷もそれを覚えていて、『忘れられないんですよね』って話してくれたんです。 私は当初違う名前で考えていましたが、石谷が『いや、ヒーローでしょう』と提案してくれました。『神代さんが退職を決意したのは、引退じゃなくて“進化”だったんだな、と感じ、鳥肌が立った。』と。私も、支援者として、子どもやそのご家族のヒーローでありたいという願いも込めて決めました。」

お話を伺っているまめぷろ編集も感動で鳥肌が立ったこのエピソード。当たり前のことが当たり前にできない不自然さをそのままにしなかった神代さんは、まさにヒーローのような存在であったといえるでしょう。
重症心身障がい児サポートはうす ヒーローを立ち上げてからまる3年。現在とこれからのヒーローについてのお話は次回に続きます。