書評「疫病短編小説」

「人」として共感すべきは感動やさみしさだけではない。「怯え」にだって共感したい。だって人間だもの。人の心ほど不安定で流されやすく、そして大切なものはなく、それはいつの時代も同じことだ。
ということで、今回ご紹介するのはビジネス書ではない。
新型コロナウィルスにまだまだ翻弄されている中、病への怯え、という観点での共感を得られる一冊をご紹介したい。

いつの時代だって怖いものは怖い

この本の中に収められている病気も多岐に渡り、「疫病」「天然痘」「コレラ」「インフルエンザ」、それぞれの流行下での恐れや疑心といった心の揺らぎを描いた作品の数々を読むことができる。


収録作家についてもなかなか豪華である。
ポー、ホーソン、ブラム・ストーカー、キプリング…とすごい作家の作品が並んでいる。これだけの作家の短編をコンパクトに読めるのも醍醐味の一つ。
内容について詳細に語ってしまうのは避けるが、いつの時代も「見えざる敵」に人類は恐怖し、慄き、不信感を募らせるにも関わらず、流行が収束すればなかったことのように忘れ去ってしまうという点で同じことを繰り返していることがわかる。
たとえば、冒頭一発目、ポーの「赤き死の仮面」では、主人公のプロスペロ公、疫病を恐れて頑強な建物を作って閉じこもっているにも関わらず、中で舞踏会を開いちゃったりして、人間っていつの時代も愚かだな…と思わせる。
ストーカーの「見えざる巨人」では、まず資本主義の拡大による格差社会が浮き彫りにされ、感染環境の要因としての「密」が描かれている点にも共感を覚える。

そして最後に「疫病の後」の一遍としてJ.G.バラードが紡ぐ世界は、すべてがテレビ越しという設定において、現代に通るものを感じることができる。バラードはこの「ニューノーマル」と呼ばれる新しい生活様式を予言していたのか?と思うほど、共感できる。
一方で、血のつながったものですらテレビ越し、という状態で、それは果たして「家族と言えるのだろうか、という疑問が沸き起こる。
過去から現在に生きる私たちが遠くの家族に会えないことを寂しいと思う気持ちと、大事な家族に、自分が原因で感染させるわけにはいかないから接触しない、という相反する感情のもとで揺れ動くのは、前提として「会って」「触れ合って」「同じ空間で生活をしていた」という経験があるからではないのだろうか。
生まれながらにテレビ越しの集まりは、果たして「家族」なのだろうか。
近未来では、この作品の世界そのままに接触しないことが当たり前となってしまうのだろうか…と戦慄して、この本は終わる。

まとめ

よくぞこの視点でまとめてくださった、と感心しきりの小説集。今回紹介した短編集は英米文学の名手のものであるが、同じく感染症の恐怖、病気の怖さをつづった小説としては、スペイン風邪が流行した時代に書かれた菊池寛の「マスク」や志賀直哉「流行感冒」などもおすすめ。
こんな時代だからこそ、敢えて先人の愚かさと現代との共通項を読んでみるのも悪くない。

書籍情報

疫病短編小説集
著者 R.キプリング、K.A.ポーター、ほか
   石塚久郎監訳
発行 平凡社